記憶を100年先にも継いでいく
~東日本復興への想い~

2019.12.20

福島、宮城、岩手を中心に甚大な被害をもたらした東日本大震災(2011年3月11日)から、8年が過ぎました。東日本各地に拠点を持つPFUでは、地域の復興を願い、また願うだけでなく自分たちも進んで関わっていきたいという想いを持って続けていることがあります。

「小さなことでも、自分たちにできる支援を続けていく」

PFUの活動と社員の想いを通して、いま私たちにできることを考えてみたいと思います。

身近な人に伝え継ぐ


「ひとりでも多くの社員に、実際に自分の目で被災地を見てもらいたい」
東日本地域で事業を展開しているPFU東日本株式会社(以降PFU東日本)では、新入社員や永年勤続の節目を迎えた社員を対象に、被災地への視察を行っています。
メディアを介して知るだけでなく、現地に足を運び、語り部の話を直接聴くことには大きな意味があります。さらに、「各地の拠点にいる社員が全員で集まるのは難しいが、機会をとらえて、いずれは全員が一度は被災地を訪れるようにできれば」と考えています。

このような活動を続けていく理由には「この地域で何が起こったのか、これから何をしていかないといけないのか、ひとりひとりが考えてほしい」、そして「この出来事を心にとどめ、身近な人に伝えていくことが、いま私たちにできる大切なこと」という想いがあります。

今回は特別に現地に案内してもらいました。

震災遺構~大川小学校~

最初に向かった場所は、震災の爪痕が残る大川小学校です。
あの日ここでは、海側から押し寄せる津波と内陸から広がってきた津波が衝突して渦を巻いていたそうです。
校舎の裏山への避難が間に合わず、職員と児童の尊い命が失われました。
2つの校舎をつなぐコンクリートの長い渡り廊下が、津波の渦の力で大きくうねり、教室の前で崩れ落ちたまま残されていました。

大川小学校

遺構の前に設置された慰霊碑に献花し、両手を合わせました。

語り継ぐ場所~閖上(ゆりあげ)の記憶~

宮城県名取市閖上地区は、海からほど近い場所にあります。
かつて約5000人が暮らし、多くの住宅が立ち並んでいたこの地域には、津波から避難できる高い場所がなかったために、街全体が壊滅的な被害に遭いました。

「閖上の記憶」は、犠牲になった、閖上中学校の生徒たちの慰霊碑を守る社務所として、地元の人たちが集まれるようにと開設された場所です。また、震災を語り伝えるための活動も続けられており、これまでに全国各地から延べ10万人以上が訪れています。

閖上の記憶

館内に映し出される津波発生当時の映像から、そのあまりにも深刻な被害と、どうすることもできなかった記憶が蘇ります。

私たちが訪問した日に迎えてくださったのは、語り部の丹野祐子さんです。
優しく穏やかな声で語られたのは、
阪神淡路大震災の報道を観ながら、遠い地で起きた出来事と感じていたこと。
地震が起きて揺れが収まったとき、津波なんて来ないと信じていたこと。
避難した建物の階段を駆け上がった瞬間、足元に真っ黒な水が押し寄せてきたこと。
数日後に、当時中学生だった息子さんが帰らぬ人となって見つかったときのこと。
そして、誰にとっても他人ごとではないはずの、災害に備える心を持つことが、どれほど大切かということでした。

災害大国になってしまった日本で、万が一のとき、どう逃げるのか、生き延びるのか、大切な命を守るための工夫と知恵を、常に考えていかねばならない、と教えてくださったのでした。

建物をでて、丹野さんとともに名取市震災メモリアル公園に向かいました。

公園の地面にはかつての地図が描かれている

震災後、閖上地区は居住が許可されない区域となりました。
復興工事が進み、きれいに整地された公園の地面には、以前の街の地図が描かれています。

「ここはね、公民館があった場所、ここは小学校、ここには歩道橋があって、この歩道橋のおかげで生き延びた人たちがいたんですよ」

丹野さんの声を聞きながら、その建物や場所があったことを自分も知っていたかのように感じられ、新しい街のいまの景色の向こうに、8年前の景色が一瞬だけ重なったように見えました。

未来への継承~さくら並木プロジェクト~

明治・昭和時代の大津波が到達した地点を伝える石碑が、時が過ぎ、記憶が風化するとともに忘れられてしまったことを教訓に、今度は桜の木でもって次の世代に伝え、残したいと立ち上がった「さくら並木プロジェクト」。

「ここまで津波が来る可能性がある」ということを、後世の人たちにわかりやすく伝えるため、2011年3月11日の津波の到達地点に、毎年少しずつ桜の木を植樹していく活動が続けられています。

PFU東日本もこのプロジェクトを支援し、宮城県石巻市に桜の木を植樹しています。

植樹した桜の木。春が楽しみ。

新しい記憶を創る~東北・みやぎ復興マラソン~

「東北・みやぎ復興マラソン」は、東日本大震災で被害にあった地域で新しく作られた道路をコースに開催されています。「走ることで復興を支援したい」という想いから始まったもので、その想いをともにするランナーが、県外からも多く参加する大会です。大会関係者だけでなく、地域の人たちがボランティアとして協力し、沿道の応援もとても温かいのだそう。

このマラソンに第1回(2017年)から参加している、PFU東日本の八木さんに、大会の魅力を聞いてみました。

走る人も応援する人も楽しめる

――2017年、2018年と続けて参加(2019年は台風で中止)されてるそうですが、この大会の魅力は?
八木魅力はたくさんあります!ランナーの視点で言うと、コースの高低差が少なく、初心者でも走りやすいというのがあります。ベストタイムを狙えます。あと、エイドがまた素晴らしい。東北各地のグルメを味わえます。あんまり美味しいから食べ過ぎちゃうので気をつけないと(笑)っていうくらい。

――走らないと食べられないんですね(笑)
八木エイドステーションはそうですが、「復興マルシェ」というイベントも同じ日に開催されるんですよ。そこで特産品の買い物もできますし、牛タン、セリ鍋、はらこ飯とか、いろんな東北のグルメを食べ比べできます。むしろ走らない方のほうが思い切り食べられてうらやましいかな(笑)。

――地域の方も大勢ボランティアで参加されていると聞きました。地域全体で盛り上げようという勢いが感じられますね。
八木本当にそうです。これは他のランナーからも聞くことですが、沿道の声援があったかいんです。
「がんばれ!」だけじゃなくて「ありがとう!」ってみんな言うんですよ。僕ら応援してもらって、こっちがありがとう、なのに、「復興支援をありがとう!」「来てくれてありがとう!」って。自分が走ることで地域の人たちが喜んでくれるんだって実感します。こんなふうに地域の人とのふれあいがある、っていうのが他の大会にはない魅力ですね。

東北・みやぎ復興マラソン。走ることで応援。

いま、私たちにできること

想いを持ち続ける


「ひとりでも多くの人に東北を訪れてほしい。そして、できれば被災地まで足を伸ばしていただけたら…。」

PFU東日本 八木さん

社員や来賓に向けて、東日本大震災の真実と現状を伝える役割を引き受けているという、八木さん。被災地への視察にも同行し、時には車窓から見える場所について説明することもあるとのこと。
この役割を以前の上司から引き継いだとき、八木さんは、正直悩んだと言います。

――東日本大震災を、当事者ではない(と感じている)自分が伝えることへの葛藤、でしょうか?
八木そうですね…。自分が実際に被害を受けたわけではなかったので…。それで当時の上司に相談しました。「自分なんかが、語っていいんでしょうか。」って。その上司に言われました。「想いがあれば、いいんだ」。その言葉があって、(自分で良ければ)伝えていこう、と思えるようになりました。

まずは知ること、そして伝えること

100年に1度の、文字通り未曾有の大きな災害が街を襲い、多くの人が大切な家族、暮らした家、ふるさとの街を失いました。そんな経験を、気持ちを、「わかる」と、簡単に言える人はいないでしょう。

でも、「わからない」ことは「考えなくてもいい」ことなのでしょうか。

「想うこと」の最初には「知ること」があり、「忘れない」があるはずで、それこそが被災地を訪れることの意味ではないでしょうか

震災の遺構の前に立ち、語り部の話を聴くこと。復興が進む新しい街の景色の向こうに、かつて確かにあったはずの風景を思い描くこと。

出来事を知り、実際にその地を訪れたからこその「追体験」は、紛れもなく自分自身の経験であり、それは必ず自分の記憶に残ります。その記憶を、経験を、心にとどめること、それを身近な人に語り、伝えていくことは、間違いなくひとつの支援の形といえるのではないでしょうか。

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